発達障害は個性なのか



こんにちは。
「心の自立支援員」幸来(サチコ)です。


過去の記事で少し触れました、ドラマ「テミスの不確かな法廷」が先日最終回を迎えました。

  >>>過去の記事「発達障害を題材にした作品について」

ドラマの内容を踏まえて、今回のテーマをお話します。
以下ネタバレも含みますので、ご注意ください(笑)


発達障害を抱えた主人公の裁判官▪安堂さん(演:松山ケンイチさん)は、法定の場でそれまで隠していた自分の発達障害を公表しました。

同僚の裁判官だけでなく、被告・原告、傍聴人など、大勢の人がいる場で、です。

審理終了後、それまで発達障害であることを知らなかった職場や周りの皆さんから
「(特性は)安堂さんの個性です」
と言われました。

でも安堂さんは

「特性を個性と言い切るのは高いハードルがある。今でも怖い」
「いつの日か特性を個性と言い切れるようになりたい」

と言ってお話は終わりました。


そもそも個性とは何でしょう。


辞書には、個性とは
「個人や個体が持つ、他のものと区別できる特有の性質や特徴」とあります。

すなわち、他人とは違う、自分だけの特徴を指すということです。

字面だけみれば、そこに良いも悪いもないはずです。

ですが、この言葉を使うとき、大体の方は「良い」個性を前提にしているのではないでしょうか。

良いとまでいかなくても
「周りから受け入れられるべきもの」
という考え方が、個性という言葉の裏にあるような気がします。

安堂さんは自分の発達障害に対してずっと否定的でした。

公表しなかったのは『障害のある自分が人を裁いていいのか』と悩んでいたからです。

要は、他人に受け入れられないと思っていたからです。


だから「個性」という言葉と結びつけるのを戸惑ったのだと思います。

そして、個性にしてしまうと、
発達障害の特性が他と区別するための自分の特徴
ということになります。

発達障害に否定的であればあるほど、それを自分の特徴とすることに抵抗があるのではないでしょうか。

だから「いつの日か個性と言い切れるようになりたい」というのは、
発達障害への否定的な捉え方を変えたいという意味なのではないかと思います。

それは安堂さん自身の捉え方だけでなく、
周りや社会の捉え方も含めて、言い切るのが怖くない環境を求めているのだと思います。

とはいえ、自分の捉え方を変えることは自分でできますが、
他人や世間は余程の有名人でもない限り、一人の人間ではどうしようもありません。


周りの方が受け入れようが受け入れまいが、
「気にしない」「気にならない」心のあり方、
すなわち「心の自立」ができるようになること。

それが、発達障害の特性を個性と言える近道なのかもしれません。


あとは、発達障害という言葉や概念の存在をどう考えるか。

そもそも「発達障害」という言葉や概念がなければ、その特性を単純に個性と言うことができたのかもしれません。

障害は認定されるメリットもありますが、言い方は悪いかもしれませんが、社会的に「普通とは違う」というレッテルを貼られることでもあります。


差別…とまでいかなくても、率直に言えば、周りから「区別」される言葉です。

そういう意味では、冒頭で述べた「個性」の定義に当てはまると言うこともできます。


でも「普通でなければならない」と考えている方にとっては、「発達障害」は「普通」の定義から外れる言葉にもなるのです。


ドラマの安堂さんも同様です。

彼は「発達障害」を隠して、「普通」のふりをするのに一生懸命でした。

そんな方にとっては、発達障害を「普通」「受け入れられる」個性だと捉えることは難しいでしょう。

だから「個性と言い切るのが怖い」と感じているのです。


発達障害に由来する特性でなくても、誰しも自分にとって受け入れられない特性があると思います。

それは変わる可能性もあるかもしれませんが、一生付き合う特性になるかもしれません。

その特性をどう受け止めるのか。

「個性」に良いも悪いもなく、単なる「特徴」だという捉え方ができれば、受け入れられない特性でも「個性」と言うことができるでしょう。


ですが、安堂さんみたいに「怖い」のであれば、無理に個性と言い切らなくてもいいと思います。

そのような自分も受け入れる心のあり方も、私がお伝えしている「心の自立」です。


必ずしも前向きでなくてもいいのです。

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